ドイツとフランスが融合した街ストラスブール

みなさんこんにちは〜!ブログしばらく書くのを忘れていました(笑)

本日はドイツとフランスが融合した街ストラスブールをご紹介したいと思います!

ちなみに、このストラスブール、長い歴史の中でドイツ領になったり、フランス領になったりしてきましたが、現在はフランス領土です。

ストラスブールクリスマスツリー発祥の地であり、フランスで最大・最古のクリスマスマーケット(1570年から440年間)でも知られています。

その他にもPetit France(小さな街)やストラスブール大聖堂など観光名所はたくさんですが、今回は何度も国籍を変えてきたこの都市の特徴についてお話ししたいと思います。

実は地図でもお分かりの通り、ドイツに国境が近く、ドイツに簡単に行けちゃいます。ドイツの製品はフランスの製品より安かったり、質がよかったりするので、私もよくkehlという街に買い物に出かけていました。

なぜこの都市について話したいかというと、私がストラスブールに引っ越した日は夜遅く、近くのスーパーで夜ご飯を買おうと思ったら英語が通じない.....!となってかなり焦りました。一緒にいたドイツ人もフランス語を話せず、どうしよう、注文できない!となっていたところ、ドイツ語はわかるよって人がいたのでなんとか食にありつけました。それが私のストラスブールの第一印象でした。

私はドイツ語もあまり話せないので、それから、英語とフランス語での生活が始まりましたが、気づいたことがあります。現地の人たち、私が英語で話したことを理解して、フランス語で返事をしてきます。絶対英語を話してくれない!!なんで?!?!フランス語が上達するまでの間、しばらく困りました。色々理解できないことが多かったので、アルザスの歴史を調べてみました。

以下略歴▼

・元々は神聖ローマ帝国に属していた

・17世紀の終わりにフランス領に

普仏戦争でフランスが敗北するとドイツ帝国領に

(日本でもよく知られている”最後の授業”はこの時を舞台にした小説)

第一次大戦後には再びフランス領に

ナチス期にはドイツ領に

・第二次大戦後にはフランス領に   ・・現在

複雑な歴史は複雑な感情を生み出します。

ストラスブールではドイツが好きじゃないという人も多いです。

若い人はそんな印象を持つ人も少なくなってきているのかもしれませんが...

祖父がアルザスでドイツ軍と戦っていたなんて人もいるようです。

面白いのはアルザス地方の名物などがドイツ語とフランス語両方あることです。

例えば、日本の名物である寿司や天ぷらは日本発祥のためで海外でも呼ばれています。

でもアルザスのお菓子はManelleとWeckman, FlammkuchenとTarte flambéeなど2つ名前があるところが面白いですね!

ではまた〜〜!

Château du Haut-Kœnigsbourg

The Château du Haut-Kœnigsbourg is a medieval castle located in the Vosges mountains just west of Sélestat, situated in a strategic area on a rocky spur overlooking the Upper Rhine Plain, it was used by successive powers from the Middle Ages until the Thirty Years' War when it was abandoned. From 1900 to 1908 it was rebuilt at the behest of the German kaiser Wilhelm II. Today it is a major tourist site, attracting more than 500,000 visitors a year.


The moment you step over the threshold of the great door at Haut-Koenigsbourg Castle, you find yourself in a whole new world: the Middle Ages. The omni-present drawbridges, armoury, keep and cannons are a constant reminder of the purpose of this mountain fortress, which has been besieged, destroyed and pillaged numerous times since its construction. This prestigious fortress was abandoned after 1633, and then given to Kaiser Wilhelm II in 1899 by the town of Sélestat. He commissioned the architect Bodo Ebhardt, a specialist in medieval fortifications, to restore the castle. Its renovation satisfied his passion for the Middle Ages, whilst he dreamed of a return to the old German Empire.

 

 

カナダの移民政策について〜その3・まとめ〜

こんにちは、Pigionです。

 

前回、カナダの移民史を紹介したところで、今回はカナダの移民政策についてまとめ、考察をしたいと思います。

 

前回見たように、カナダ🇨🇦は、18世紀以降、様々な移民に関する政策を経て現在の多文化社会を実現しています。

 

元々は、17世紀初め、フランス人の入植から始まり、その後のフランスとイギリスが戦争し、以降イギリスによる植民地支配が続きます。その間、アイルランドアイスランド、イギリスを中心に移民が入植し、アメリカからもロイヤリストが押し寄せました。また、移民輸送の為の、貿易会社の立ち上げや、カナダ国内でのインフラ、交通網の整備及び産業発展に努めました。

この時期のイギリスからの移民を中心とした受け入れには、アメリカ移民によるカナダ略奪を防止するため、また、カナダ国内の産業を発展させるためやイギリスの貧困者にカナダで土地を与えるため、など様々な目的がありました。

 

さらに2度の大戦中にはユダヤ人を中心とした移民の受け入れ、在カナダ日本人の収容を行いました。第二次世界大戦以降はハンガリーなど東ヨーロッパからの難民に加え、南アジア、南米など非ヨーロッパ系移民が増加し、彼らは見た目によって移民であると判断できたため、”Visible minority”と呼ばれるようになりました。以降、移民に対する国内の反発も増え、指導者が変わるたびに移民政策も練り直されてきました。

 

また、20世紀後半にかけては、フランス系カナダ人によるイギリス系カナダ人に対する反発が激化、テロが勃発しました。カナダは翌年、多文化主義宣言を採択することで、対立を鎮静化しました。その後、カナダ経済の発展には移民が必要という考えから、門戸を解放するカナダの移民政策が安定し、現在でも毎年20万人の移民を受け入れています。

 

イギリス系とフランス系の対立はカナダだけではなく、例えばカメルーンでも発生しており、カメルーンではカナダのような共存社会は実現せず、今日に至るまで、内戦が続いています。

 

多文化主義についても、欧州のリーダーたちは難民の危機が勃発した際に、難民を受け入れた結果、治安が悪化し、その政策が失敗であったと明言しました。そしてイスラム系移民によるテロがドイツ、フランス、イギリスなど欧州各地だけで続き、その結果、アメリカでは、反移民主義を掲げるポピュラリズムが台頭、トランプ政権が生まれました。この傾向は欧州にも伝播し、各国でポピュラリズムを掲げる政党が急激に支持を伸ばしました。白人によるムスリムに対するテロ行為も起きました。

 

一度は理想として叫ばれた多文化主義が欧州でみるみるうちに崩壊する中、世界で最も多文化な国家であるカナダではどのようにして多文化主義をこれほど長い間、一度も内戦を起こすことなく、維持してきたのでしょうか。これはカナダの歴史が比較的短い一方、欧州ではすでに既成の文化や風習があったからでしょうか?

たしかにスウェーデンでは、移民と住民の争いが絶えない理由として、移民はスウェーデンの学校に行き、仕事を見つけることを求めている一方、住民は移民がスウェーデンの文化や言語を理解し、それを受け入れることを求めている、との声もあります。もしそうだとすると、何千年という歴史を有する日本は、カナダではなく欧州での失敗から学ぶべきなのでしょうか?

 

ここでPigionの意見を述べます。

まず欧州において、多文化主義が成功しなかった一つの要因は、欧州に大量の難民を受け入れる準備ができていなかったことです。この難民の危機はシリア戦争によって勃発したものですが、欧州ではそのような大量の難民が押し寄せてくることはもちろん想定していなかったにも関わらず、難民を受け入れざるを得ない状況に直面しました。二つ目に難民の危機で押し寄せた移民の多くがムスリムであったことです。欧州は人権という概念が生まれた場所であり、世界において、最もリベラルな国々の集まりです。一方で、ムスリムは伝統的な価値観や宗教を持ち、それらは欧州が考える人権とは合致しない部分が多くあります。それらの多様な価値観に対応する準備も整っておらず、国民の理解を得られないまま受け入れることとなりました。三つ目に、急激に押し寄せたこれらムスリムのほとんどが、家族単位での移住であり、またその数が多かったために、彼らの中での団結感がすでに存在し、マイノリティとして、欧州の文化や宗教を受容するという考えがなかったことです。つまり、多文化主義といっても、移民の出身国の割合がどこか、またそれらの各国のバランスも重要なのです。もしも、今回の難民危機で大量に押し寄せた移民が日本人であったならば今日に見るような欧州とは別の姿があったでしょう。

 

日本でも同じことが言えます。つまり、日本は欧州ほどリベラルではないものの、欧州の基本的人権の価値観等は共有しています。一方、ムスリムの価値観を共有する部分が多くあるわけでもありません。そこで、日本に比較的近い文化や価値観を持つ国々、例えば東南アジア等からの移民を受け入れてバランスを保てば、ある程度の共存が可能と考えられます。しかし、カナダのように世界に向けて移住者を募るとなれば、話は別であり、事前の準備や国民の理解を得て行うことが重要です。そして、やはり日本の文化や価値観を受け入れられ、また移民の価値観も受け入れられる体制を整えなければ、そこで移民政策は失敗となります。(これが可能かどうかは別ですが…)

そしてこれは政策一般に言えることですが、移民政策にもこれが正解というものがなく、失敗を経験して今のカナダがあるように、日本も今後様々な試行錯誤をしていくことと思います。それも、カナダが経験した以上に厳しい困難や試練が待ち受けていることでしょう。もちろん欧州の失敗から学ぶことは多くありますが、今後日本が移民をさらに必要とすると判断する時代が来た場合には、歴史的文化や背景は違うといえ、カナダ人の多文化主義に対する考え方や政策を学ぶことは、1つの勉強になると考えられます。

 

カナダの移民について〜その1〜

 いつもPigionのくだらない恐怖体験を見てくれてありがとうございます。

 

まだまだ、タイの交通事故で死にかけた話やインドで熱中症になり入院した話など

共有したい恐怖体験はいっぱいあるのですが、

今回は系統を変えて、カナダの移民について

書きたいと思います。

 

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なぜカナダなのかというと、、

カナダは世界でも有数の移民国家で、

現在でも移民を多く受け入れています。

 

移民国家というのは、文字どおり、移民で成り立っている国家のことです。

最近でも日本からカナダに移民した!っていう日本人が少なからず

存在していると思います。

 

カナダでは17世紀以降、ヨーロッパから

元々はフランス人、イギリス人だった人たちが引っ越してきて、

カナダ人となりました。

 

そして、20世紀、21世紀には大量の難民やアジア人が

さらにやってきて住み着いた結果、今日のカナダの姿となりました。

 

一概にカナダ人と言ってもアジア系カナダ人、フランス系カナダ人など

様々なカナダ人が存在しています。肌の色も違います。

それぞれのバックグラウンドがあり、また家で

使う言語と学校で使う言語を分けている家庭も多くあります。

 

一方、日本では日本語を使う日本人が大半の国です。

学校で使う言語も家で使う言語も同じ、日本人と言えばアジア系の顔。

フランス系日本人という言葉がなければ、

白人の日本人を思い浮かべる人もいないでしょう。

 

日本とカナダは歴史も全然違います。

それぞれの国家の成立時期については、その地域に人が住み始めた時期と

実際に国家として成立し始めた時期を厳密に区別する必要があるため、

諸説あるとこですが、一般的には、

 

カナダの国家成立時期については、

フランス人がカナダのセントローレンス川に入植した

17世紀初めが始まりと言われています。

 

今が21世紀なのでざっと約400年強がカナダの歴史ということですね。

 

一方日本の誕生については倭国から日本国へと変名した

7世紀後半と言われています。

つまり日本の歴史は約1300年以上前まで遡ります。

 

そんな対照的なカナダと日本だからこそ、日本がカナダから学べることも

あるんじゃないかと思い、テーマにしました。

 

日本は最近人口減少が激しく、高齢化社会が問題となっています。

日本の将来はどうなるのでしょうか?

 

そのヒントがカナダの歴史にあれば良いなと思ってブログを書くことにしました。

 

カナダの移民史について、次回書きたいと思います。

 

 

 

 

 

カナダの移民史について〜その2〜

みなさんこんにちは、Pigionです。

 

前回に引き続き、カナダの移民史についてまとめてみたので

共有したいと思います。

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初めに、カナダはどんな国か紹介します。(なぜ〜その1〜で紹介しないw)

カナダは人口が約3400万人(そのうち約100万人が先住民)、

10の州および3の準州から成る国家で、

前回紹介した通り、移民者が入植し始めたのは約400年以上前です。

 

ただし、イギリスから独立したのは1867年なので、

カナダ自治領としての歴史は約150年です。

(事実上独立国家となったのは1931年なので

厳密には約100年ということも可能です。)

 

公用語は、英語とフランス語ですが、

それ以外にも複数の公用語を独自に指定する州も存在しています。

例えば、トロントでは非ヨーロッパ系人口が半数以上を占めるため、

緊急電話(911)では150言語以上が使用可能です。(すごい、これ!)

 

近年では毎年約20万人がカナダに移住しています。

しかし、カナダ中に移民が散らばっているわけではなく、

全移民の80%が大都市(バンクーバートロントモントリオール)に

集中しています。

 

カナダの概要を学んだところで、移民史を年表で見てみましょう。

〜カナダの移民史年表〜

1763年:フレンチ・インディアン戦争の終了

    以降イギリスによる支配が続く

1783年:アメリカ独立戦争が終了し、

    アメリカのロイヤリスト(王党派)がカナダに移住

1867年:英領北アメリカ法の制定により、

    カナダがイギリスから独立

    (当時カナダにおける移民の92%がイギリスまたはフランス系)

1869年:最初の移民法制定

1931年:カナダが事実上独立国家となる

1947年:市民権法を施行

    移民もカナダ人も同等の権利を有するとされた

1948年:世界人権宣言に署名

1950年:市民・移民局を設置

1952年:1952年移民法制定

    移民行政を簡素化、選別、許可、送還に関する大臣の広範な権限を規定

1960年:カナダ権利の章典

    東洋人にも公民権を与えることとし、生命・自由・財産が法的に保障された

1962年:ホワイト・カナダ移民政策を事実上廃止

    差別的移民政策を撤廃した最初の国家となった

1963年:二言語・二分化主義

1967年:ポイント制移民システムの導入・人種差別条項の撤廃

1969年:英仏両語がカナダ公用語となる

1970年:10月危機

    ケベック分離者による誘拐・テロ事件

1971年:多文化主義宣言

1972年:カナダ人権法

1973年:多文化省創設

1976年:ケベック分離主義党がケベック州議会選挙に勝利

1977年:ケベック州公用語をフランス語に限定

1982年:憲法の権利、自由憲章

    →ケベックは受入を拒否

    →最高裁違憲判決

1988年:多文化主義法(世界で初)

    全カナダ人が、宗教、人種、出身国に関わらず、カナダ社会のあらゆる側面に完全に参加できるようにすることをカナダ政府に求める

1990年:長期的移民計画を発表

    移民にさらなる門戸を開く新5か年移民計画を公表

1994年:市民権・移民省(CIC)創設

1997年:香港返還

    バンクーバーに大量の広東語系移民が押し寄せる

1999年:イヌイット・インディアンの自治権を承認

2002年:移民・難民保護法発効

    カナダ移民計画の経済・社会・文化の基本目標の大要を示す

2004年:カナダ国境管理庁(CBSA)の創設

 

 

カラスに攻撃された話

こんにちは。Pigionです。

 

今回はカラスに攻撃された時の恐怖体験を

 

お話ししたいと思います。(前回に引き続き恐怖体験)

 

さて、ある街で散歩がしたくなったPigionは

 

大通りを歩いていました。

 

木の上にカラス二匹が鳴きながら、飛び回っているのを見つけたのですが、

 

そのうちの一匹が急降下したんですね。いきなり意識でも失って地面に

 

落ちていくのかと一瞬ドキッとしたんですが、体勢を整えると低空飛行で

 

前に歩いている人の頭の上を通過しました。

 

【あのカラス、前の人の頭にぶつかったんじゃないか?】と思ったんですが

 

特段前の人は振り向きもせず歩いて行ったので、Pigionも後に続きました。

 

さてここから恐怖体験です。

 

ちょうど、前の人がカラスと接触したであろうあたりに到着した瞬間、

 

思い切りカラスに後ろから頭を攻撃されました。

 

Pigionは、悲鳴を上げて腰を曲げながらその場を立ち去ろうと走りました。

 

振り向いてはいませんが、カラスはまだ頭の周りにいるような

 

感じがしました。その後しばらくは、頭にカラスの感触が残りました。

 

あれはなんだったのか、前の人も攻撃されたであろう瞬間を目撃したので

 

偶然とは考えられないと思ってネットで調べていたところ、

 

カラスは人の顔を鮮明に覚えることができ、人を攻撃するという情報が出てきました。

 

特に春から夏にかけては、繁殖期でヒナや巣に近づくと攻撃されるそうです。

 

思い返すと、木の辺りを旋回していたのは、攻撃に先立つ威嚇行為だったようです。

 

夏までの時期は、カラスの巣に近づかないようにみんなも気をつけよう。

 

カラスはとっても頭がいいそうで、知能はサルと同等またはそれ以上みたいですね。

 

生まれて初めての攻撃を受け、

 

恐怖体験でしたが、カラスについて勉強するきっかけになりました。

 

 

 

【海外で恐怖体験】バンクーバーの超危険エリアで迷子になった

こんにちは。

 

Pigionです。

今回はバンクーバーの危険地域に迷い込んでしまった時の恐怖体験を

お話したいと思います。

 

 

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山登り@Vancouver


去年の秋、【カナダで山登りがしたい。】という夢を叶えるために

憧れの地、バンクーバーに行きました。

 

幸い、現地在住の大学時代の友達がいたので案内してもらうことに。 

 

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滞在先のAirbnb

友達はPhysiotherapist(日本でいう理学療法士)の仕事をしていて、

週に3日程度働いているんですが、ある日、午前中だけ仕事の日があったので

 

【じゃあPigionは午前中、市内を観光してきて。

 午後から一緒に車で出かけよう。】ということになりました。

 

1人旅の始まりです。電車では日本人も見つけて安心しました。

海外でManthattan Portageのカバン(黒いバッグに赤でマンハッタンのビルが

書いてあるやつ)を持っているアジア人は高確率で日本人ですね。

 

 

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海外にいる日本人が持ってる鞄あるある

 

とりあえず駅に到着した私は、目的地を蒸気時計台(バンクーバー定番の観光地w)に

設定し、歩き始めました。

 

寄り道もしたかったので、地図はそれほど気にせず、興味の向くままに

進んでいたところ、途中で中華街を見つけました。

 

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バンクーバーの中華街入り口

道の途中で、行列のある中華系のスイーツ屋さんを

見つけました。注文しようとチャレンジしたものの人混みが多すぎて断念。

 

そのまま左に曲がったんですね。メインストリートからそんなに

離れてなかったので、ここが危険地域の入り口だとは思いもしませんでした。

 

なんか変な歩き方している人がいるなーっていう印象。

スターバックスカップを持ったヒップホップ系男性が、その中から何かを

取り出し、又ふたを閉めました。金銭の授受をしているようでした。

 

まだPigionはここが危険エリアだとは認識せず、そのまま進んでしまいました。

 

しばらく歩くとゾンビみたいな人がゾロゾロと現れました。

お店のエントランスも、普通ではない頑丈な鍵や鉄の柵に

守られている。

みんな右か左か前か後に体が傾いてて、まっすぐに歩けていない。

地面に座ってる人も多く【なんだここは。】と思い

周りを見渡すと、まともな人が私だけだと気づきました。

 

【これはちょっとやばい。】ここで危険エリアにいることに気づきます。

 

【でも走ったりしないほうがいい。なるべく目立たないように

ジロジロと見ないように、普通に歩くんだ。】

 

そう思った私は、恐怖心を隠しながら堂々とまっすぐに歩きました。

歩くこと10分弱、この危険地域に迷い込んだ私は、出口がわかりません。ただ、普通のエリアじゃないことは明らかに分かりました。異様な雰囲気がありました。

 

【普通のエリアに戻りたい。】ようやく1人のまともな人を見つけます。

おそらく地元の女性でしょう。私は必死でその人のあとを追いました。

そしてひとつの古着屋さんを見つけたんです。

 

すぐさま店に飛び込み、【蒸気時計台はどこですか。】と尋ねると、

優しく【あっちだよ。】と左を指差し、教えてくれました。

 

店を出て歩くと、普通のカフェや店が見えて、安心しました。

 

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観光名所に辿り着いて撮影した1枚

時計台はすぐそこにありました。

観光地のこんな近くに危険エリアがあるバンクーバー。。。

しばらく無心で、時計台を見つめました。

 

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蒸気時計台

Wi-Fiを手に入れて友達に連絡すると

【そこはバンクーバーで一番危険な地域だよ!地元の人でも行かないよ。】とお叱りを受けました。

 

その後も聞けば聞くほどいかに危険なエリアに迷い込んだのかが

わかって、無事に帰ってこれたことにホッとするばかり。

 

旅は危険と隣り合わせ。憧れのバンクーバーにも

そんな地域があることを学んだそんな旅でした。